高峰譲吉博士研究会

高峰博士ゆかりの地・人

1)ゆかりの人‥‥塩原又策(1)

三共株式会社(現・第一三共株式会社)創始者。譲吉が発明した「タカヂアスターゼ」の日本での販売を一手に引き受ける。(三共百年史より抜粋)


(1)若くして眼は海外へ

塩原又策 塩原又策は、父又市の長男として、父の事業(船舶給水業、貸地貸家業)が一応の成功を収めつつあった明治10年(1877)1月、横浜に生まれた。「仕着せをまとうた幼年の僕を鞭撻してくれた亡き父」と後に回顧しているように、幼い頃から他の店員と同じ服装で父から厳しく商売を仕込まれた。
 小学校時代の友人に大谷幸之助がいた。製茶販売商として横浜屈指の豪商であった大谷嘉兵衛の養嗣子である。父と嘉兵衛が親しかったこともあって、又策は、大谷家や大谷商店に始終出入りしていた。横浜最大の製茶輸出商であった外国商館スミス・ベーカー商会と、国内各地から入荷した製茶の取引をしていた大谷商店の活況を間近に見て育った又策は、幼い頃から外国との貿易に憧れ、事業家としての自立を目指すようになった。
 終生、独立白尊を信条とした又策は、事業家としての自立を急いだ。すでに79歳に達していた父又市も、その成功を見定めたかったのであろう。又策が20歳になった明治30年に、又市は喜兵衛に懇請して、その全面的な協力のもとに横浜刺繍株式会社を設立し、経営を又策に任せた。
 会社の代表として、専務取締役には嘉兵衛の養子大谷金蔵が就き、塩原は取締役兼支配人として事業の采配を振るうこととなった。
 こうして塩原は、宿願であった貿易業務につながる外国商館への絹織物売込商として、事業家としての第一歩を踏み出したのである。


(2)父の残した3つの遺産

 塩原又策は、父又市から多くのものを受け継いでいる。まずは、事業家としての資質である。
 父又市は、文政元年(1818年)1月、信州洗馬(現・塩尻市)の農家に生まれた。時代が慶応から明治と移り変わった頃に単身上京し一商家に勤めたが、間もなく横浜へ移った。
 50歳を越えてから、未知の横浜で船舶給水業に身を投ずる積極性と不撓不屈の精神力は、又策が、無縁であった医薬品業界での起業を決意し、タカヂアスターゼの普及に賭けた努力と情熱につながるものであった。また、新薬の輸入販売から製薬業へ、その後の株式会社化による大正期の飛躍など、事業家塩原又策の時勢を見る先見性は、横浜の発展を見抜いて給水業を経て土地、家屋へ投資し財をなした父親譲りの資質であった。


(3)実力者 大谷嘉兵衛の後援

 わが国屈指の実業家であり、「茶の大谷」として内外に知られた大谷嘉兵衛は、塩原にとって終生の恩人であった。
タカヂアスターゼ 明治35年(1902)、大谷が塩原の新薬輸入事業を強力に後援する最初の機会が訪れた。32年に、タカヂアスターゼの国内一手販売を委任されていたとはいえ、この年、アメリカから帰国していた高峰譲吉からさらにアドレナリンの一手販売権を獲得することができるかどうかは、塩原にとり事業の将来を左右する大問題であった。すでに34年、販売権の申入れを行っていたが保留されていたのである。
 大谷は、高峰を訪問して塩原を強く推薦した。32年に、第1回万国商業大会に日本代表として出席した大谷の活躍ぶりは、アメりカの新聞に大きく報じられた。その大谷が塩原の事業を最後まで面倒をみると保証したことは、塩原の創意と情熱には打たれながらも、医薬品業界では、まだ単なる一業者にすぎない塩原の販売力に一抹の不安を惑じていた高峰にとって、契約に踏み切る大きな決め手となった。
 大正2年(1913)3月の三共株式会社設立時にも大谷の支援があった。設立発起人7名中、高峰、塩原、鳥居徳兵衛(関東総代理店)の当社関係者を除いた4名は、長井利右衛門(大谷の茶商仲間)、渡辺和太郎(大谷の事業仲間の長男)、大谷幸之助(大谷の養嗣子)、古谷竹之助(大谷の元部下)であり、塩原の要請に応えて大谷が発起人への参加を依頼したものであった。


(作成:平成22年10月15日/文責:事務局)